1/1「古典」

    同じ書物を読むにしても、当然ながら、読み手が異なれば読み方も変わり得る。

    しかし時間的な隔たりを超えて同じ書物を読むことができることこそが、こうした異なる読み方の可能性を開き、その蓄積を可能にしている。

    こうして一つの書物について様々な読み方が積み重ねられ、読み方の蓄積がさらにまた別の書物を生み出すまでに至った書物を、我々は敬意をこめて「古典」と呼ぶ。

    古典とは、ただ長い時間を過ごしてきただけでも、内容がすぐれているだけの書物でもないのだ。

読書猿『独学大全―絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』ダイヤモンド社p.350

 

    ここのところ、創作を継続させるにはどうするかみたいなことを考えていて、先日、紀伊國屋じんぶん大賞2021で3位にランクインした本書をいま読んでいて、そろそろ読み終わる(ちなみに1位は、『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』)。様々な独学の技法が示されていて、いま大変売れている本書だが、その中に「古典」についての記述があったので引用した。わたしは今日から一年かけて、ちくま文庫夏目漱石全集を読破するつもりでいる。ただ面白そうだからやってみたいという気持ちがある一方で、「古典」の「全集」を2021年に読む意味があるのではないかということは、どうしたって考えてしまう。全集を読破した時にその意味を理解できるかはわからないし、理解したから何だという話だけれども、なぜ古典や全集が本読みを魅了し続けるのか、という事実を知りたい欲求は消えそうもない。

    現在、一巻にあたる『吾輩は猫である』を人生で初めて読んでいる。猫の一人称であったり、ユーモアのある物語という予備知識はあったが、知ってたのはそれくらいで、ほとんど何も知らないまま読み進めている。物語自体はゆったりしているのに、ずっと登場人物たちが議論しているので、小説が動き続けている印象がある。人間を観察する猫の心情がいちいち面白く、読んでいて飽きない。

    今日も仕事で、例年通り一月前半は忙しく、なかなか読書する余裕はないので、全集読破のためのスタートダッシュは決められそうにないが、繁忙期が終われば、おのずとペースを掴める筈である。筈では困る。そうであってほしい。

    帰りに車で高速道路を走っていたら、異様な月で、いつもより丸く大きく見えた。車の移動とともに月も移動していた。ように見えた。そのうち月が落下するような気がした。いや、落下はしない、とわたしは思った。