1/13「琴のそら音」

     夏目漱石全集の1巻は500ページ超えの長編「吾輩は猫である」だったが、2巻は、英国留学時代を題材にした「倫敦塔」や「カーライル博物館」など短編7編と名作「坊っちゃん」が収録されている。そういうわけで、いま順番通り短編群を読んでいるのだが、どうもはやく「坊っちゃん」を読んでみたいという気持ちが急いているみたいで、読み方がやや甘くなっている気がしてならない。「坊っちゃん」自体は大学生のころに講義で読んでいるのだけど、もうほとんど忘れていて、その時はそれほどおもしろいと思った記憶もない。でもいまこうして初期の作品「吾輩は猫である」を読んで大変に面白く、いまなら同じく初期のユーモア青春小説の「坊っちゃん」を楽しく読めそうな気がしたのだ。

「倫敦塔」「カーライル博物館」「幻影の盾」と読んでいくと、「吾輩は猫である」と同じ時期に書かれたものだがだいぶ小説の柄がちがう。「倫敦塔」なんかは妖しい霧がかってるような英国の雰囲気満点で、ゴシック小説と幻想小説が混ざったような味わいで、文章も惚れ惚れとするのだが、なんというか、「吾輩は猫である」を読んでた時ほどのワクワク感がそこまでない。まだ読み始めたばかりなのに、わたしのなかで夏目漱石は「猫」を読むかぎり、かなりトリッキーなことをしてくる作家になってしまっていて、もっと動きがある小説が読みたい。そう思っていたら、四番目の短編「琴のそら音」がぐぐぐと惹き付けられる内容だった。「猫」のようにここでもまた会話を中心にしていて、幽霊話を聞かされた主人公が陰気な街を歩くうちその街の人の声を聞き、いつの間にか死にとりつかれるようになる展開なんてなかなか迫力がある。

 

「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と余は胸の中で繰り返して見た。昨日生まれて今日死ぬ者さえあるなら、昨日病気に罹って今日死ぬ者は固よりあるべきはずである。二十六年も娑婆の気を吸ったものは病気に罹らんでも充分死ぬ資格を具えている。こうやって極楽水を四月三日の夜の十一時に上りつつあるのは、ことによると死にに上がってるのかも知れない。ーー何だか上りたくない。しばらく坂の中途で立って見る。しかし立っているのは、ことによると死にに立っているのかもしれない。ーーまた歩行き出す。死ぬと云う事がこれほど費との心を動かすとは今までつい気がつかなんだ。気がついて見ると立っても歩行いても心配になる、このようすでは家へ帰って蒲団の中へ這入ってもやはり心配になるかも知れぬ。なぜ今までは平気で暮していたのであろう。考えて視ると学校にいた時分は試験とベースボールで死ぬと云う事を考える暇がなかった。卒業してからはペンとインキとそれから月給の足らないのと婆さんの苦情でやはり死ぬと云う事を考える暇がなかった。人間は死ぬ者だとはいかに呑気な余でも承知しておったに相違ないが、実際余も死ぬものだと感じたのは今夜が生れて以来始めてである。夜と云うむやみに大きな黒い者が、歩行いても立っても上下四方から閉じ込めていて、その中に余と云う形体を溶かし込まぬと承知せぬぞと逼るように感ぜらるる。余は元来呑気なだけに正直なところ、功名心には冷淡な男である。死ぬとしても別に思い置く事はない。別に思い置く事はないが死ぬのは非常に厭だ、どうしても死にたくない。死ぬのはこれほどいやな者かなと始めて覚ったように思う。雨はだんだん密になるので外套が水を含んで触ると、濡れた海綿を圧すようにじくじくする。

夏目漱石夏目漱石全集 2』ちくま文庫p.112

 

ぐるぐる思考したのちの〈死ぬのは非常に厭だ、どうしても死にたくない〉という独白と激しくなってきている雨の風景が異様ですごく良い。こういう場面があるからこそ、最後の狸の議論により物語を脱臼させ、笑いに転調するところなどは、「猫」に通じる構成が見てとれて興味深かった。

 

    図書館に本を返しに行ったので、漱石の評論を眺めてパラパラと読んでみたが、全集読破日記が終わるまではあえて読むのはやめておこうと読みたいけど我慢して棚に戻した。