2/12「射殺」

〈空から小鳥が墜ちてくる/誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために/野はある〉

    これは田村隆一の詩集〈四千の日と夜〉のなかの「幻を見る人 四篇」の書き出しでここだけでも大変に切れ味するどくカッコいいのだが、この詩のなかでは〈わたし〉〈われわれ〉〈ぼく〉と人称が移行する。これはこの詩だけでなく〈四千の日と夜〉全編で様々な人称が使用されており、ただ、そのこと自体は次の詩集〈言葉のない世界〉でも同じだから特に驚くほどのことではない。しかし、昼と夜に生と死のイメージを重ねるのは詩としてはありきたりだが、田村隆一の場合は〈四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を/われわれは射殺した〉と書いてるくらいだから、どっちも同じ意味を持っていることは重要だと思う。だからこそ〈われわれはいとしいものを殺さなければならない/これは死者を甦らせるただひとつの道であり、〉という言葉が出てくるのだろう。日があるから夜があり、生があるから死がある、逆もしかりなのだ。生と死が混ぜこぜで過去も現在も時空を越えて様々な人称があらわれるとなると、わたしにはどうしてもラテンアメリカ文学、とりわけメキシコ文学が思い出される。オクタビオ・パスフアン・ルルフォ、カルロス・フエンテスらが。わたしがさいきんとくにラテンアメリカ文学を読んでるから無理矢理こじつけているだけかもしれないが、もっと詳しく読み込んで考えても面白い題材である。